LOGIN ルゥン・ヴォルフ――魔王軍の
そして勇者として
「魔王軍の侵攻がすぐに始まるだろう。勇者は早々に旅立たねばならぬぞ」
翌朝の村会議で、村長がセリュオスに向かって告げた。そう告げられた時、セリュオスはある悩みを抱えていた。
その時は、ただ拳を握り締めて「勇者、か……」
おとぎ話で聞いた勇者の旅というものは、一人でおこなうものではなかった。 勇者と共に支え合うような勇者は必ず何人かの仲間を見つけて、共に助け合って魔王に挑んだと聞いたことがある。
旅立つ時にはすでに仲間がいることが多かった。とはいえ、村人の中から戦えそうな者を連れて行くのは違うように思っていたのだ。
セリュオスが不在の間に故郷の村が襲われてしまうのも本意ではない。村には義父オルフェンも義母セリナも残ることになる。
彼らの命が何よりも心配だった。 セリュオスの胸に焼き付いていたのは、勇者となった際に輝いた光の紋章と、恐怖に震える義母の手の感触だった。「一人で行くしか、ないよな……」
それからの日々は、旅立ちの準備に費やすことになった。
義父のオルフェンは鍛冶場にカンッカンッと鋼を打ち鳴らす音は、村全体に響き渡った。
皆がその甲高い音を聞きながら、勇者が武器を得て旅立ちの日を迎える確信を心に刻み込んでいたことだろう。義母のセリナは、夜ごとに糸車を回し、マントを織った。
それはただの布ではなかった。 何日もかけて羊毛を 魔よけの
村人たちもそれぞれが贈り物を用意してくれていた。
薬師の老婆は乾いた薬草を包み、猟師は狩った鹿肉を「みんな、ありがとう……!」
セリュオスは大切な贈り物を受け取りながら、胸の奥に熱いものが込み上げるのを必死で抑えた。しかし、夜になると、急に不安が押し寄せてきた。
鎚の音が止んだ静けさの中、眠りにつけずに外へ出たセリュオスは、村の入り口から隣町へと続く街道を見つめていた。「俺に、魔王を倒せるのか……」
それはセリュオスの心の底から出た悩みだった。 勇者だからといって、すべての勇者が魔王を討つことができたわけではないことを思い出したのだ。魔王に敗れて勇者が死ねば、また新たな勇者が世界のどこかに誕生する。
そして、勇者と魔王の戦いは幾度となく繰り広げられてきた。「ただの村の子だった俺が、勇者に選ばれて本当に良かったのだろうか……」
――答えのない問いが、セリュオスの胸を締め付ける。「眠れないのか」
振り返ると、そこにはオルフェンがいた。 鍛冶場からそのままやって来たのか、「……怖いのかも、しれない。俺が、本当に勇者なのかわからなくなって。魔王を倒す力を秘めていると言われても、信じられなくなって……」
静かに聞いていたオルフェンはしばらく黙って炎を見つめ、それから逞しい手でセリュオスの肩を「……勇者だから、戦うんじゃない。戦わねばならん時に立ち上がった者を、人は勇者と呼ぶんだ」
その言葉にセリュオスは息を義父の背中を追って家に戻ると、セリナが織りかけのマントを抱えてセリュオスに見せてくれた。
「ほら、あと少しで完成するわ」 彼女の指先は針で傷だらけになっていた。「セリュオス、あんたはあたしの息子だよ。血がどうとか、勇者に選ばれたとか関係ない。どこへ行っても、あんたはあんたのままだからね……」
その声は僅かに揺れていたが、確かな温もりを帯びていた。「
翌日、村長がセリュオスを古い
「勇者の紋章を宿す者よ、この地を守る神霊に誓いを立てよ」
長老に促されて、セリュオスは祠の前に膝をついた。 冷たい石の感触が掌を伝う。「俺は……この村を、そして人々を守りたい。怖くても、逃げずに立ち向かう。そして、必ずこの世界を支配しようと企む魔王を、この手で……!」
声は震えていたが、その言葉はセリュオスの確かな意志だった。 その瞬間、左手の甲に宿る紋章が淡く輝き、祠の奥に刻まれた古い石碑の文様も同じ光を放った。「神霊が、勇者を祝福しているのか……」
傍にいた村長は息をついに旅立ちを翌日に控えた夜、セリュオスは幼い頃の記憶を夢に見た。
まだ物心がついて間もない頃、村の子どもたちにあいつは捨て子だと「血が繋がっていなくても、お前の場所くらいわかるさ……。オレたちは、親子なんだからな」
そう言われた日の温もりが、夢の中で鮮やかに――そして、旅立ちの朝が訪れた。
村の広場には大勢の人が集まり、皆がセリュオスの旅立ちを見守っていた。「
「義母さん」
セリナが肩にかけてくれたマントは深い「セリュオス!」
村の子どもたちが駆け寄り、何度もその名を呼んだ。 老人たちは祈りを捧げ、女性たちは涙を拭いながら見送っていた。「みんな……」
勇者であることは神からの祝福であり、託宣であり、重荷でもあった。 それでもセリュオスは剣の柄をしっかりと握り締め、深く息を吸った。「……行ってきます!」
その一言に、広場は静まり返り、やがて大きな歓声が沸き起こった。 セリュオスが背を向けると、胸の奥が締め付けられる。だが、セリュオスの顔にもう迷いはなかった。
自分は勇者だ。この村を守るためだけに、勇者に選ばれたのではない。
――このアルスヴェリアの世界をも守りたいと願ったから、勇者として選ばれたのだ。そう心に刻み込み、セリュオスは歩き出した。
小さな村を後にし、まだ見ぬ仲間たちとの出会いに胸を膨らませ、魔王との戦いが待ち受けているであろう長い旅路を行く――。高評価のレビューやいいね、コメントをいただけると、続きを書くモチベーションを維持することができそうです! できるだけ長く書き続けたい作品ですので、応援よろしくお願いいたします!
戦いが終わった後、静かな夜を過ごしたセリュオスたちは、霧の民の拠点の入り口の門の下に集まっていた。 その時間は思いのほかゆったりと流れ、一行は最後の一人がそこに現れるのを今か今かと待ち続けていた。 不思議な体験の余熱はまだ残っているが、休んでばかりはいられない。 セリュオスたちはこの世界の魔王を倒さなければならないのだ。 そんなセリュオスたちの心を知ってか知らずか、周囲の空気は澄み渡っていた。 なかなか姿を見せない仲間の一人に心をかき乱され、そんなに時間は経っていないはずなのに、数時間も待たされている気分だった。 だが、一行の不安を拭う用に、一定のリズムを刻んだ足音が彼らのもとに近づいてきた。 また一緒に旅立てることを期待しながら、セリュオスたちは彼女を待ち続ける。「レバザの姐御ォ」 最初に沈黙を破ったのは、ガドルだ。 「その恰好、旦那について行くってことで……いいんだよなァ?」 レバザはガドルをチラッと見てから、僅かに口角を上げた。 「ああ、勇者に気づかせてもらったからね。でも、その前に……」 一度息を吸ってから、彼女は口を開いた。「シル=ネムの親玉である魔王ドライシュトラにも、ひと言くらい文句を言ってやらないと、気が済まないだろ?」 すると、ガドルが喉を鳴らしながら、小さく笑った。 「ハハ……本調子に戻ったみてぇで、何よりだァ」 少し後ろで聞いていたエレージアは、視線を逸らしたまま、ほんの一瞬だけ表情を曇らせる。 「……でも、無理はしないで頂戴。あなたが現実に戻って来れたのは、ほとんど奇跡みたいなものなのよ」 「それも、わかってるさね。勇者がいなかったら、今アタイはここにいない。迷惑かけた分、アンタたちの力になるつもりだよ」 レバザはあっさりと答える。「それは心強いな」 セリュオスの言葉に嘘はなかった。 エレージアも納得したように頷き、ついに一行は霧の民の拠点を出発することになった。 シエルハだけは最後まで名残惜しそうにしていたが、まだ若いのだから、今後も訪れる機会はあるだろう。 拠点を離れてから、勇者一行の足取りは自然と揃っていた。 セリュオスを筆頭に、エレージア、ガドル、シエルハ、レバザ、そしてアシリィ。
シル=ネムが幻霧によって生み出した戦場は、白だけではなく、黒、紫、深緑――様々な色で包まれていた。 それは怒りや恐怖、後悔、誇りといった、シル=ネムのものとは異なる誰かの感情から形成されているようだった。 幾重にも折り重なった感情が霧となり、戦場に渦巻いている。 その中にはきっと、レバザのものも含まれているのだろう。 霧は視界を歪ませ、距離感を狂わせる。 世界の音は反響し、足音すら信用できない。 だが、その中心には一人の揺るがぬ背中があった。「……勇者! そっちは任せたからね!」 レバザがシル=ネムと斬り結ぶ。 その背は、今まで幸福な夢に浸かっていた者とは思えないほど逞しかった。「わかってる! 俺たちが自分自身に負けるわけにはいかない!」 セリュオスたちの目の前にいるのは、確かにこれまで霧の民を導いてきた戦士長のレバザだった。 幾つもの霧が、彼女の周囲で荒れている。 対峙するシル=ネムは巨鎌を作り出し、レバザの斧槍に対応している。 セリュオスにできることは、彼女を信じて自身の幻影に勝つことだけだ。「あっしも、いいとこ見せてやんなきゃなァ!」 ガドルが豪快に笑いながら、自身の幻影を殴り飛ばす。 「ガドル!」 だが、即座にエレージアの鋭い声が飛んだ。「調子に乗るのは止めなさい! 幻に釣られたら、足元を掬われるわよ!」 「へいへい! わかってますよォ!」 注意されながらも、ガドルの陽気さは変わらない。 鋼の拳を構えながら、立ち上がった自身の幻影へと突っ込んでいく。「……偽物の割に、強くないか?」 セリュオスが感じたように、自身の幻影は単なる偽物ではなかった。 武器がぶつかり合うたび、精神に干渉してくるのだ。 体内からこちらを蝕もうとしてくる。「……っ、ちくしょう……!」 最初に止まったのは、ガドルの足だった。 その隙を狙うように、ガドルの幻影が一気に距離を詰める。「だから、調子に乗るなって言ったでしょう!」 間一髪、エレージアがガドルを守っていた。 その後、ガドルはエレージアが生み出した魔力の流れによって、その頭を叩かれていた。「姐さん! 助かったぜェ!」 エレー
夢の世界はいつも同じ光を湛えていた。 霧のない青い色が空を満たし、森は静かに呼吸している。 木々の影が揺れ、風は心地よい温度を保ったまま吹き抜けていく。 だが、そこは変化のない完成された世界。 レバザの背後には、夫のバンダと息子のジグが立っている。 いつも同じ姿で、いつも同じ笑顔で。「レバザ。ここで、一緒に暮らそう。もう戦わなくていい。君だけが苦しまなくていいんだ」 バンダが穏やかに呼びかける。 その声はレバザが戦場で心を擦り切らせていた夜、何度も支えとなった響きではあったが、セリュオスが現れてから疑問は確信に変わった。 レバザが二人から離れようとすると、その手をジグが掴む。 「お母さん、嫌だよ……。離れたくない」 その手には精一杯の力が込められており、レバザを引き止める。 今にも泣き出しそうな表情は何度も見たことがあった。 子どもらしく我儘を言ってくる時と何も違いはなかった。 レバザは無意識のうちに息を詰めていた。 抱き締めれば確かにそこにいると感じられるし、腕の中には温もりがあり、鼓動があり、命の重さもある。 幸福な世界は夢のようでありながらも、本物としか思えないほど精巧だった。 だが、レバザはもう目を逸らすことができなかった。 この世界は動くことはないし、時間が進むこともない。 別れも、成長も、後悔も存在しない。 そして、何よりも。 ここに居続けたら、自分は何者でもなくなってしまうだろう。 役目を持たず、戦わず、選ばず、責任を負わなくていい。 それがどれほど甘い罠だったのか、レバザは気づいてしまったのだ。「……ごめんよ」 なんとか絞り出したレバザの声が震える。 涙を堪えながらも、二人に語りかける。「アタイは……アンタたちと、いつまでも一緒に居たい」 その言葉にバンダの目が見開かれ、ジグの顔がぱっと明るくなった。 その瞬間、セリュオスが一歩踏み出そうとする。「レバザ……!」 だが、レバザはセリュオスを見ることなく、片手を上げて制する。 今はセリュオスの言葉が必要なわけではなかった。 自身の選択、その答えを出すための時間だったのだ。「それでも……それでもね、アタイはもう……ここには、もう戻れない」
霧のない空。 澄み切った青がどこまでも高く広がり、雲は薄く、穏やかに流れていた。 霧による重苦しさは一切なく、胸いっぱいに息を吸い込めば、肺の奥まで幸せが満ちていくような錯覚すら覚えるほどだ。 淡い光に満ちた豊かな森の中で、レバザは立っていた。 その両脇には夫のバンダと、息子のジグがいる。 二人はごく自然に彼女の傍にいて、肩に触れ、手を取り、その多幸感を確かめ合うように笑顔で溢れていた。「お母さん、見て! あっちの木に実がなってるよ!」 ジグの声は弾んでいた。 バンダは息子の元気な姿を見て、優しく微笑む。「ジグ、後で取りに行こうか。お母さんはまだ少し調子が悪いみたいだからね。レバザ、大丈夫かい? しばらくゆっくりして、落ち着いてからでいいからね」 「ああ、わかってるよ」 その温かい言葉に、レバザの胸が静かに満たされる。 家族の笑い声がそよ風に溶け、葉擦れの音と混じり合う。 ここには戦いもないし、恐怖を感じることもない。 失う不安さえ、ここには存在しなかった。 この世界でずっと過ごしていきたい。 そう思いかけた、そのときだった。 ぱちぱちと、拍手の音が森の空気を裂いた。 一度だけでなく、何度も高い音が響く。 祝福するようでいて、どこか距離を測るような奇妙な間合いに、レバザは反射的に身構えた。 警戒しているバンダがジグを後ろに下がらせ、レバザの背後に下がる。「……誰だい」 レバザは重々しい声で問いかけた。 すると、それは木々の影からゆっくりと姿を現した。 霧のような淡い色の外套を纏った何者か。 輪郭は確かにそこにあるはずなのに、焦点を当てようとすると、なぜか曖昧になってしまう。 もちろん、顔立ちも判然としない。 男とも女とも、老いているのか若いのかさえ断定できなかった。 だが、その声だけは異様なほど落ち着いているのがわかる。「――素晴らしい、光景ですねぇ」 感嘆するように、だが感情を乗せすぎることなく、その存在は言った。 レバザは斧槍を構えながら、再び誰何する。「名前も知らないやつと世間話をする気はないよ。こっちはアンタが何者かって聞いてるんだ」 レバザの視線は鋭かった。 すると、外套の
遺跡の探索を終えて、セリュオスたちは霧の民の拠点に戻ってきた。 結局、『シル=ネム』という名前以上に目ぼしい成果を得ることはできなかった。 今夜の霧は、前夜とは比べものにならないほど静かだった。 霧の民の拠点を包む白は柔らかく、音を吸い込み、自然に発生する微かな音さえ遠くへ溶かしていく。 空気は冷えているはずなのにどこか温く感じられ、まるで時間そのものが足踏みをしているかのようだった。 仲間たちにも言えない悩みを抱えつつも、レバザは今夜も確かに眠りについたはずだった。 セリュオスたちとは別々の寝床で、毛布を胸元まで引き寄せて目を閉じた。 思考の騒めきも確かに闇に沈んだ、はずだった。 だが、レバザが目を開けた瞬間、世界は切り替わっていた。 そこに霧はなく、冷えた空気も、湿った土の匂いも存在しない。 代わりに鼻腔を満たしたのは、懐かしい竈の煙の匂いだった。 レバザがゆっくりと視線を巡らせると、そこはかつてレバザたちが暮らしていた住居だった。 壁に残る、子どもがぶつかって欠けたような跡。 低くて、何度も頭を打った天井。 竈の横に積まれた薪の並び方まで記憶の中のままだった。 足元の土間は冷たく、息を吸えば、微かに混じる薬草の匂いがあった。 あまりにも現実的で、夢だと断じるには具体的すぎた。「……そんな、はずが……」 レバザの掠れた声が部屋の中に溶けた。 胸の奥で嫌な予感と、抑えることのできない期待が同時に膨らんでいく。 理性によって封じ込めようとするが、現実を否定できるわけがなかった。 そのときだった。「レバザ。急にぼうっとして、どうしたんだい?」 また聞き覚えのある声が聞こえた。 心臓が強く脈打ち、恐る恐る振り向く。 やはり、夫のバンダだった。 今回は霧でぼやけていないし、歪んでもいなかった。 少し日に焼けた肌も、髭の濃さも、記憶のままの姿でそこに立っている。 薪を抱え、少し困ったように笑みを浮かべていた。 その仕草は、生前と何一つ違わない。「……バンダ……なんで、また?」 喉がひくりと鳴った。 名前を呼ぶだけで胸の奥が痛み出す。 そうだ、きっとこれは夢に違いな
地を這う民の街を出て、2日ほど歩いて辿り着いた霧の民の拠点は、山の内部に溶け込むように存在していた。 岩肌を穿ち、洞を広げ、その空間すべてを霧で隠すことで外界と隔離している集落。 それが、霧の民が住まう土地だった。 人工物でありながら、どこか自然の一部のようでもある。 天井も壁も、明確な輪郭を把握することは、霧の民ではないセリュオスには難しい。 視界は常に白く揺れ、ただでさえ足元すらも曖昧で、初めて訪れる者には距離感すら掴めないのだ。 さらには、この拠点内に立ち込める霧は一様ではなかった。 淡い乳白色のもの、薄青く冷たく感じるもの、光を反射して煌めくもの。 それらが幾層にも重なり合い、ゆっくりと流れ、時折形を変えていく。 呼吸をするたび、肺の奥にまで冷たく柔らかな感触が染み込んでくるようだった。「ここが、アタイら霧の民の拠点さね」 先頭を歩いていたレバザが振り返り、そう告げた。 声は落ち着いており、どこか柔らかさを帯びている。 かつて、セリュオスを拒むように尖っていた表情は、今は鳴りを潜めていた。 むしろ、確かな信頼が滲んでいるように見える。 森の民との諍いを乗り越え、共に地を這う民の隧道を旅し、時間を分け合った結果だろうか。「色とりどりの霧か……。しかも、かなり視界が悪いな」 セリュオスが率直に言うと、レバザは肩を竦めた。「慣れれば、すぐに気にならなくなるよ。それに、この霧はアタイらを守ってくれる砦にもなってるからね。目を凝らせば、ちゃんと仲間たちの姿も見えるだろ?」 レバザは集落の内部を示すように腕を軽く振る。 彼女に言われたとおりに、その先をジッと見つめていると、霧越しに点々と浮かぶ住居の灯りのようなものが見えてきた。 その周りには、作業を終えてくつろぐ人々の気配を感じ、器具を片付ける金属音、低く交わされる談笑さえも聞こえてくる。 子どもたちの小さな笑い声が、霧に溶け、輪郭を失いながら耳に届く。 どれもが、確かに日常の音だった。 かつて、森の民と対立していた頃は、この拠点には張り詰めた空気が漂っていたことだろう。 いつ侵略されるかわからない恐怖に、疑念と警戒。 だが今は、穏
酒場の灯りが暖かく揺れている。 石造りの壁に吊るされたランプの火が、木の長椅子や酒樽を柔らかく照らし、賑やかな笑い声や歌声が響いていた。 酔ったドワーフたちが腕を組んで歌い、卓上では豪快に肉と麦酒が飛び交っている。 その片隅に、セリュオスとフィオラは腰を下ろしていた。 二人の前に並んでいるのは焼いた獣肉の皿と、香草を利かせた野菜の煮込み。 それを前にしながらも、フィオラは落ち着かない表情を浮かべている。「……酒臭い……」 「そうか?」 「匂いだけじゃない。声も、空気からも臭ってくる。酔っぱらいの大声なんて聞いてると、頭が割れ
森の奥は昼にも関わらず暗く、頭上の枝葉が厚く茂っていた。 陽光はほとんど遮られ、差し込むわずかな光の筋が、細かな塵や羽虫を煌かせている。 鳥のさえずりも少なく、代わりに湿った土を踏む二人の足音と、絶え間なく続く口論がやけに響いていた。「だから言ったでしょう! あの川は東に曲がり始めていたって!」 「いいや、あれは確かに北の方向に伸びていたね。太陽の位置を見れば、簡単にわかるだろ」 「あなたの感覚ほど信用ならないものはないわ! 気まぐれな森は私たちを騙すことだってあるのよ!」 二人は言い合いをしながらも、その歩みを止めることはしない。
セリュオスとフィオラは鬱蒼と茂る森の中を進んでいた。 視界は木々の枝葉に覆われ、陽の光はほとんど地に届かない。 落ち葉に埋もれた獣道のような細道を踏みしめるたび、靴底に湿り気がまとわりつく。 そんな心細さを抱えながらも、彼は目の前を歩くエルフの背を見失わぬように注意していた。「……本当に、こっちで合っているんだろうな?」 気まずさを紛らわすように声をかけると、フィオラはぴたりと足を止め、振り返りもせずに言い放った。「文句があるなら一人で歩きなさい。私はあなたを導いているわけじゃない。ただ、私が帰る道を歩いているだけ」 その声音には棘が
森はどこまでも深く、頭上を覆う枝葉は陽光を遮り、昼であるはずなのに黄昏時のような薄暗さを漂わせていた。 湿った土と苔の匂い、木々の間を渡る風の音――それらすべてが同じに感じられ、セリュオスは何度歩いても同じ場所に戻って来るような錯覚に陥っていた。「……やっぱり、方向感覚くらいは鍛えておくべきだったか」 額の汗をぬぐい、苦笑混じりに吐き出す。 勇者の紋章を持っているとはいえ、冒険者としてはまだ駆け出しである。 剣の重みも旅の孤独も、まだ肌に馴染んでいなかった。 そのとき――森を裂くように獣の咆哮が響いた。 低く重く、地の底から湧き上がるような唸り。







